サビのメロディにどことなくシュタゲっぽさを感じるのう →これが原因だった
キャラクターソングを聴くといつも「このキャラソンって、キャラクターと一体全体どういう関係にあるんですか?」みたいなことを一瞬考えてしまう
この疑問はおそらく二つの小疑問に分割できる 一つはこの歌詞が本当にキャラクターの心情を表現しているのか もう一つはこの歌を歌っているのは本当にキャラクターなのか
儂は、キャラクターソングはあくまで作品の外部から作品のキャラクターについて語っているものだと捉えている たとえば「青春エレジーと飛行機雲」という歌は「ゆゆ式」という作品の「櫟井唯」というキャラクターを、「ゆゆ式」の外部から表現している それはアニメと同じ声優が歌っていようが、作詞者が三上小又(この歌の場合は別だが)であろうと関係は無い
そう考えると、二つの小疑問についてはこう答えることができる。この歌は、「ゆゆ式」世界の中で生きている「櫟井唯」というキャラクター(の将来に対する、もどかしさ、憂鬱、不安や期待など、漠然とした様々な感情が綯交ぜになった心情)を確かに表現しているが、「櫟井唯」自身が歌ったものであるとはいえない。あくまでこの歌は作品の外部の存在なので、作品の一部であるキャラクターがその歌にコミットすることは不可能だからである。
でもこうやって言葉にしてみると、この考え方はツッコミどころ満載じゃ 作品の外って何やねんなー(春日歩)
じゃあ、あずまんが大王のアニメで、大阪がカラオケで歌ったアグネス・チャンの歌みたいなキャラソンも「あずまんが大王」の外にあるといえるのか?
そもそも、キャラソンを作品の外部に置くことに何か理由があんのかよ?と言われると微妙 キャラソンという存在を、元の作品に依存して生成される人工物と考えるのが自然だから みたいに存在論の人工物説(この前の本で表面だけなぞった)の立場に立てば一応理由付けっぽいことになるのかな 理由付けの仕事を丸投げしているだけともいえる
ぼっち・ざ・ろっくの二話を観た 良いアニメ
カット割りや視点を意識した細かな演出がふんだんに盛り込まれいていて、何度みても面白くずっと鑑賞していたくなる かなり好きじゃ ツイッタでも言われているようにこの良さはけいおんアニメのそれに近い
伊地知虹夏さんの包容能力の高さが印象に残る 聖母のようで慈愛に満ちておる
教育能力が高くて優秀邪 ゲームのチュートリアルに出てきて、優しく操作方法を教えてくたり、うまく操作できるとめちゃめちゃ褒めてくれたりしそう
ところで儂は頭の切れるキャラクターに勉強や人生のチュートリアルをやってもらって、いろいろ教えてもらいたいという願望を持っている
学校に行かされるのではなくて、端末を使ってキャラクターに教えてもらおう!というスタイルだったらもっと勉強ができる気がする たぶん
なんとなく今くいなちゃんを思い出した 複数いるくいなちゃんのうちの一人に知識を分けてもらいたいものだぜ
でも実際にキャラクターを複製再現できるようになって、それとリアルタイムな対話ができるようになったとしたら、それはそれでめちゃめちゃ萎縮してしまいそうな気もしてきたな(そも、我々が生きている内には実現しないじゃろうが)