電子書籍とノベルゲームの違い

ぼっちざろっくのキャラクターを描くつもりだったのだがいつのまにかわたモテの二人になっていた まだ自分の中でキャラクターをつかみきれておらず、既に消化済みの類型的なキャラクターに姿形を半無意識的に寄せてしまったのだと思う

 

ワタモテは、特に根元陽菜というキャラクターの中途半端なリアル感が印象に残っている なんか知らんけど、特定の少数グループの人たちから敵意を向けられていそうな感じが……

 

ずっとキャラクターが棒立ちしている絵ばかり描こうとしているが、いまだにちゃんとキャラクターを地面に立たせることができていない ふにゃっと地面に触れている感じ いつか立たないかなーと思いながら何度も同じような絵を描いている よろしくないなー(何が?)

 

キャラクターを単純に一人増やすだけで難易度がググッと上がるような気がする 描くコストが二倍になるのとは別に質的な難しさがある 

キャラクターが二人同じ空間に居合わせている状況があまり自然には発生しないと思っていて、そういう意味でキャラクターが二人以上いる絵を描くにはシチュエーションをしっかり考える必要がありそれが難しい 

 

 

 

omocoro.jp

 

わしはだいたい物語の筋をつかむように、スーと小説を読むタイプじゃ この記事のように一文一文を噛みしめ鑑賞することはあまりない

あくまで儂の場合だが、これは紙、電子媒体にかかわらず本というメディアの特性が原因なのだとおもう 本は文がとにかく密集して一斉に表示されているから 読んでも読んでも、読了するまでは次の文の存在が仄めかされ続けている なんとなく、次の文章をすぐ読まなくてはいけないような気になってしまう

一文読み、その都度立ち止まり、文が表している詳細なイメージについて考える そういったことはせずにただただ文章の流れを読んで情報を消費していく そうめんを噛まずにすすって飲み込むような感じ 

 

 

この点において、ノベルゲームと本は全然異なった構造をしているなと思う 

ノベルゲームは記事のように文章を区分けして、今読んでいる文だけを表示する プレイヤーがボタンを押すという行為によってはじめて次の文が現れる プレイヤーには、次の文が登場するまでの「間」を自由に設定する権利が与えられている

 

そのため、自然と今表示されている文章に立ち止まり、文の意味を反芻することになる 文章表現や物語の設定に細かなツッコミを与えながら読んだり、文章の意味や背景を考える時間を自由にとることが促されている(本の読書だってそれは許されてはいる 許されているけど、本は常に次の文、次の展開が自分を監視しているような感覚に陥ってつい次へ次へと読み進めてしまうのじゃ)

 

儂が書籍よりもノベルゲームの方が物語に没頭しやすく、魅力を感じているのは、絵や音楽といった単純な追加要素というよりかは、「いま読んでいるこの文」に集中させてくれるような構造をノベルゲームが持っているからなのだろうな、と思った