キャラクターを語る

To Heartのビジュアルファンブック、情報量が多くてとても良かったぜ

 

ゲーム内に登場した全スチルがコメント付きで紹介されていて、これだけでも大満足じゃ

他にもキャラクターの考案段階のラフとか、没スチル、没キャラクター案、販促用ポスターのイラスト、あずまきよひこ先生の漫画とかが載っていて、とにかく内容が盛りだくさんでスゴかった

 

 

 

 

ところでこういう「制作の裏側全部見せまっせ!!!」といった本って最近あまり見かけないな

儂の観測範囲が狭いのもあるのだろうけど

 

インターネット、特にツイッターとかで制作者が作品の制作過程を見せることはよくあるけど、公式の場でそれをオープンにしてるのはあまりない気がしている

 

公開するにしても、主に技術的な面が強調されていて、作品やキャラクターについて直接的に説明することはあまりないような

 

 

たとえば東方projectでは、「設定資料集」的な位置づけの本はいくつか出版されている

が、それはどれも「東方の世界(幻想郷)に存在するキャラクターが執筆した」という建前で作られたものになっている

 

つまり、外部である現実世界から作品について語るものではなく、あくまで作品の内部から自発的に語る、という形式になっていて、この違いは結構でかいんじゃ

 

 

なんでこういう風になってきたのかはなんとなく予想がついていて、儂たちのキャラクター、および作品への向き合い方が変わってきたからだと思っている

 

 

 

 

 

ブルーアーカイブではキャラクターと現実の関係性が上手く世界観に組み込まれていて、メタな読みができるようになっている

 

 

ブルアカの世界観では、

  • キャラクターの存在の本質は「神秘」と表現される 
  • 世界の外の脅威である「色彩」と神秘が接触すると、神秘が反転して「恐怖」になる
  • 「恐怖」と「神秘」を併せ持つことで「崇高」に至ることができる

 

 

キャラクターと現実世界の関係性になぞらえて考えると、ここでいう「色彩」は、作品を外部から観測している儂自身のことを指していると言えるじゃろう

 

儂が作品に登場するキャラクターを観測しているとき、実際に観測しているのはキャラクターそのものではなく、髪型、見た目、性格といった特徴データと、それを表した図像の集合体に過ぎない 

儂が見ているのはキャラクターそのものではなく、スクリーン上に表示されたキャラクターの性質に相関した記号なのである

 

つまり作品を眺める人間(色彩)は、作品世界に存在するとされるキャラクター(神秘)を直接認知することはできず、アーカイブ化された複製可能なデータ(恐怖)を通じてしか、キャラクターの存在を感じることができない 

そういう空虚な関係がある

 

 

 

作品の外部からキャラクターについて語るとき、語っている対象はあくまで「恐怖」であって、「神秘」ではない
だからキャラクターについて作品外から語ってもあまり意味をなさない

 

キャラクターを有意味に語る唯一の方法は、新しく作品を創ってキャラクターをそこに存在させること 

ブルアカ的に言えば、キャラクターを崇高に至らせることしかない