ある対象を自分が好きになるかどうかは、煎じ詰めれば、好きのボタンを自分で押すか/押せるかどうかで決まるような気がしてきた

対象に対して、積極的な態度を取るか/無関心としてそのままにしておくか、みたいな判断が一定のタイミングでなされている 

これはある種の自分に対する取り決めというか、暗示めいた行為で 

ボタンを一度押してしまえば、その対象に自分の苦手な要素があったとしても、好きな対象の一要素として受け入れることができる つまり、儂の場合、はじめに短所とか長所とかいった対象の部分的な側面に注目することなく、全体のレベルで好きかどうかの判断がなされていることが多い

だから、「なぜそれが好きなのか?どんなところが好きなのか?」という質問が来ても、大抵の場合は答えようが無い 

「好きだと思う(ようにした)から」以上の事を答えられない それ以上は言語化不可能で、無理やり言語化してしまうと、その言葉に自分の価値観が制限されてしまう気がする

質問する人はそんなダルいことは考えてなくて、あくまでコミュニケーションとしてなんか言ってくれよ、って意図なんだろうけど

 

 

俺ガイル

原作でもガッツリif√をやっててびっくりした

商業のラノベで、いったん物語が完結した後にif√をやるのってけっこう珍しいのでは 少なくとも一定の人気と、作者の意欲がないと続編なんて出せないだろうし

ノベルゲーならいざ知らず、小説でif√を読むのは新鮮じゃ 

こっちの√の方がキャラの情動が描かれていて面白いと思った というか、普通に小説のクオリティが前より上がってる気がするぜ

 

 

 

 

 

オメガ城の惨劇やっと読めた 一度読み始めたら一気に読めて良かった

 

読んでいて感じたけど、やはり森博嗣の文体は、視覚的なイメージに偏っているなと思う 森博嗣の小説を読んでいる時は映画を観ているような気分になる 登場人物たちの経験を追体験するというよりは、映画を、映画館で観ているように錯覚する

だからなのか知らんが、森博嗣の小説を夜に読み始めると、映画館で流れる映画を自分で止められないように、読書を中断するタイミングが分からななって、しばしば徹夜をすることになってしまちがちじゃ(今回もそう)

 

あくまで儂が見ているものは映画作品ではなく小説で、そこにギャップが生じている 儂は文章を読んで映像をイメージしているけれど、そのイメージは儂のものでしかなく、作品自体のものではない

文章に書かれていない、いわば読者に委ねられている余白の要素について、それを後に指定するのかどうか、指定するならばその過程について、作者は自由に設定することができる 森博嗣の作品には、そういう作者の裁量に自覚的なものが多いなと思う ミステリ小説らしいといえばらしいのかも